三次忠臣蔵 瑤泉院阿久利姫物語

初代三次藩主浅野長治の娘、阿久利姫は、14才のとき播州赤穂浅野家の内匠頭長矩に嫁ぐ。ところが、夫の浅野内匠頭長矩は、元禄14年、江戸城松の廊下で刃傷事件を起こし切腹。阿久利姫は赤坂にある三次浅野藩下屋敷に移り、髪を降し瑤泉院と称し喪に服した。四十七士の一人菅谷半之丞は兄のいる三次藩に身を隠す。この時、居住していた家の障子に飛んでくる虫があたる音をヒントに紙太鼓を作成。三次どんちゃん祭の紙太鼓として現代に甦る。翌、元禄15年12月14日赤穂浪士は、吉良上野介へ討ち入し仇討を果たす。菅谷半之丞は槍3人組で活躍。翌年2月赤穂浪士四十七士は切腹。瑤泉院は、自らの化粧料である三次藩からの米千石を銀に代え、大石内蔵助に託し彼らの生活を支えたと言われている。45才で亡くなり、夫内匠頭の眠る江戸泉岳寺に葬られた。阿久利姫の幼少期からのお守り役であった落合与左衛門は遺髪を三次に持ち帰り、三次で没した。鳳源寺に葬られ今も遺髪塔の側でお守りしているという。

古事記神話の山・比婆山物語

1300年前にまとめられた古事記は比婆山にまつわる伝説を今に伝えている。昔、昔・・・男の神様イザナギと女の神様イザナミの夫婦は大きな矛でコーロ、コーロといいながら海をかき混ぜ、日本の国を生んで行きます。さらに、家の神や自然の神様を次々と産んでゆきますが、火の神様を産んだ時、イザナミのミコトは火傷を負い死んでしまいます。そしてイザナミノのミコトは、比婆の山に葬られます。イザナギのミコトは、妻のイザナミのミコトが恋しくて、黄泉の国へ逢いに行きます。しかし、死したイザナミのミコトは、変わり果てた自分の醜い姿を見られたことに怒り、イザナギのミコトを殺そうと追手を放ちます。イザナギのミコトはつる草の髪飾りを投げ、山ブドウやタケノコに変えて追手に食べさせ、時間を稼ぎます。さらに追い詰められた時、霊験のある3個の桃を投げつけ追手を退治します。しかし、イザナミのミコトが追い付き絶体絶命の時を迎えますが、黄泉の比良坂で千人でも動かせないほどの大きな千引岩で黄泉の国の出入口を塞いでしまいます。ここに生と死を分ける境が出来るのです。熊野神社は、このイザナミのミコトが眠る御陵の遥拝所として信仰を集めてきました。4メートルを超す杉の巨木が66本もあり、中でも樹齢千年を超える広島県で一番大きな木は天狗の休み木といわれ、天狗の使う団扇の音が聞こえたと伝えられています。烏帽子山の条溝石をはじめ、御陵を中心に神が宿ると言われる不思議な大きな岩がたくさんあります。また、比婆山は鳥尾の峰と呼ばれ、鳥上の峰と呼ばれる船通山と共にスサノオのミコトの八岐の大蛇を退治した舞台でもあります。比婆山周辺にはイザナギがイザナミの眠る御陵に向かって「ああ!我が妻よ!」と叫んだとされる吾妻山などの伝説や神話にまつわる地名が多く残されています。

吉き宿後鳥羽上皇と銀山街道

源平の戦は多くのドラマを生みました。後鳥羽上皇は1180年にお生まれになり、安徳天皇が平氏とともに京都を去ったため4歳にして天皇に即位されました。一流の歌人にして武道にも通じていた後鳥羽上皇は、数奇な運命をたどり吉舎にもその伝説を残すことになります。4歳で即位された後鳥羽天皇は、18歳で皇位を土御門天皇に譲られ上皇に成られましたが、時あたかも鎌倉幕府との対立が深まり風雲急を告げる時期でした。後鳥羽上皇は北条氏に実権が移った鎌倉幕府に対して、1221年兵をあげましたが(承久の乱)敗れ、隠岐に流罪となります。京から大阪へ陸路、大阪から尾道までは瀬戸内海を、そして、尾道からは、吉舎を経て出雲から海路で隠岐へ渡るというルートでした。ここ吉舎では艮神社で一泊され、吉(よき)舎(やどり)と真筆で残され、吉舎の地名の由来となりました。この時、秀峰「登美志山」を望んで「皆人のふじと知られて備後なる 富士(とみし)の山の峰の白雲」と詠まれたと伝えられています。吉(よき)舎(やどり)という優しい響きは、現代の吉舎の人たちの作る灯篭の優しく美しい灯りに通じます。

また、吉舎は中世・近世の主要な街道の宿場町でしたので、石見の大森銀山から尾道まで銀を運ぶ銀山街道150km、3泊4日の行程の昼食場所として使われました。一行は牛馬300頭、400人の人が従事したと記録されています。七日市、四日市と市が立ち商業の町として栄えていました。古い町並みには「卯建」が上がっており、往時を偲ばせます。現代は、藍色のデニムの暖簾がかかり新しい風を感じさせます。